Georgia, United States, page #18,397

ブライアクリークの戦い()は、アメリカ独立戦争中の1779年3月3日に、ジョージア植民地東部、ブライア・クリークがサバンナ川に合流する地点近くで戦われた戦闘である。主にノースカロライナ植民地とジョージア植民地の民兵で構成される愛国者軍がイギリス軍の急襲を受け、重大な損失を出した。この戦闘は僅か数週間前にオーガスタの北、ケトルクリークの戦いで、愛国者軍がイギリス軍に対し勝利を挙げた後のことだけに、その士気の面で負の効果を及ぼすことになった。背景1778年にフランスがアメリカ独立戦争に参戦した後、イギリス軍はその注視する所をアメリカ南部に向けた。イギリス軍は戦争初期に南部には注意を払っていなかった。イギリス軍はニューヨーク市と東フロリダのセントオーガスティンから部隊を派遣することで南部戦略を開始し、1778年終盤にはジョージアのサバンナを占領することにした。ニューヨーク市のアーチボルド・キャンベル中佐の指揮する遠征隊が先ず到着し、1778年12月29日にうまくサバンナ市を占領することができた。イギリス軍によるオーガスタ占領イギリス軍のオーガスティン・プレボスト准将が1月半ばにセントオーガスティンからサバンナに到着すると、そこの全軍の指揮を執り、キャンベルに部隊を付けて派遣し、オーガスタの占領とロイヤリスト民兵の徴募を目指させた。キャンベルは1,000名以上の兵を率いて1月24日にサバンナを発ち、1週間後にはオーガスタに到着した。途中でジョージア民兵隊からの嫌がらせもほとんど無かった。オーガスタはサウスカロライナ植民地のアンドリュー・ウィリアムソン将軍がジョージアとサウスカロライナの民兵約1,000名を率いて守っていたが、キャンベル隊が近付くと部隊の大半を撤退させた。サバンナ川を渡りサウスカロライナに入る前にウィリアムソン隊の後衛がキャンベル隊と小競り合いを演じた。その後キャンベルはロイヤリストの徴募を始めた。約1,100名の者が徴募リストに署名したが、実際に民兵中隊を結成できた数はかなり少なかった。続いてキャンベルは違背すれば資産を没収するという条件で忠誠の誓いを求めた。多くの者が心ならずも誓いを立てたので、直ぐにウィリアムソンはその真の感情を知ることとなった。キャンベルはオーガスタに居る間にインディアンからの支援も期待していたが、それは得られなかった。またノースカロライナ植民地とサウスカロライナの田園部でロイヤリストを徴募するために、ロイヤリストのジョン・ボイド大佐を派遣していたが、大規模な支援部隊を立ち上げられないのではないかと心配していた。ジョン・アッシュ将軍の率いるノースカロライナの愛国者民兵隊1,000名以上がウィリアムソンの宿営地に到着したことで、2月12日にキャンベルはオーガスタを放棄することに決めた。その2日後、ボイドの率いていた600ないし700名の民兵隊がケトルクリークの戦いで敗北したその日、キャンベルはオーガスタから撤退し、サバンナに戻る行軍を始めた。. [read more]