Movie Theater - United States, page #15

ウエストウイング()は、アメリカ合衆国大統領官邸ホワイトハウスにある西棟の名称である。「ウエストウィング」(西翼)の名を冠する建物は他にも多くあるが、アメリカで「ザ・ウエストウイング」といえば通常これをさす。概要ウエストウィングは、一般にホワイトハウスとして知られる本館(メインハウス)の西側に隣接した建物で、ファーストレディー・オフィスと大統領危機管理センターがある東側のイーストウイングとともに、本館とは渡り廊下で連結している。メインハウスが大統領の官舎であるとともに、国内外の要人との会談やレセプションなどにも使用される儀式的な空間であるのに対し、ウエストウィングは大統領の執務室「オーバルオフィス」、閣議室、国家安全保障会議室、定例記者会見室、危機管理のためのシチュエーションルームなどのほか、現在では副大統領、首席補佐官、大統領補佐官、報道官、法律顧問、上級顧問などの上級スタッフのオフィスなどが入る、アメリカ合衆国連邦政府の中枢である。ウエストウィングは日本で言えば「総理大臣官邸」、メインハウスは「総理大臣公邸」に相当する。歴史長らくメインハウスの2階部分には、ホワイトハウス・スタッフのオフィスが入っていた。しかし1901年にセオドア・ルーズベルトが42歳の若さで大統領に昇格し、妻と6人の子供たちを引き連れてホワイトハウスに引っ越してくると、この建物が突然手狭なものになってきたのは誰も目にも明らかだった。そこでメインハウスの西隣の温室と厩舎があったところに別棟を建築させ、スタッフのオフィスをここに移した。これがウエストウイングの始まりである。この当時のウエストウイングはまだ仮オフィスビル的な状態であり、内装が完成してオーバルオフィスが初めて作られたのは、次のウィリアム・H・タフト大統領のときである。1929年末、漏電による火災でウエストウイングは半焼した。1933年にフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、小児麻痺の後遺症のような障害のある大統領にも使い勝手が良いようにと、ウエストウイングにはこれを機に大改装が施された。このときオーバルオフィスは、メインハウスと渡り廊下で直結する現在の位置に移された。これにより大統領は、スタッフの目を気にせず自由にメインハウスとの間を行き来ができるなど、プライバシーの面が強化されている。また、リハビリのための水泳を好んだ大統領のために屋内プールも作られたが、この部屋は後のリチャード・ニクソン大統領のときに定例記者会見室に改装された。. [read more]

ヤンキー・スタジアム(Yankee Stadium)は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク・ブロンクス区にあった野球場。MLBニューヨーク・ヤンキースが本拠地としていた。球場の歴史ヤンキースは1913年からポロ・グラウンズをニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と共用していた。しかし1920年、ベーブ・ルースがレッドソックスからヤンキースに移籍、54本塁打をマークする大活躍で一気にスター選手になり「ルース効果」でヤンキースの年間観客動員が大リーグ史上初めて100万人を突破した。これに気分を害したジャイアンツのジョン・マグロー監督は「1921年以降はポロ・グラウンズを使うな」とヤンキースに通告した。そこでヤンキースは新球場の建設を決めた。最初はマンハッタンへの建設が検討されたがルース効果で儲かっていたヤンキースでさえ手が出せないほどマンハッタンの地価・花崗岩掘削費が高かったため、これは断念せざるを得なかった。他の地区を調査したヤンキースは1921年2月6日、ハーレム川を挟んでマンハッタンの反対側に位置するブロンクス区の材木置き場を10エーカー購入した。そこはポロ・グラウンズからは1マイルも離れていない場所だった。新球場は、僅か230日で建設され1923年4月18日、ボストン・レッドソックス戦で開場。74,217人の観衆が集まり、さらに20,000人ほどが球場に入りきれなかったという。こういった建設の経緯から、ヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」(The house that Ruth built )との異名をもつ(開場翌日の19日に「ニューヨーク・イブニングテレグラム」のスポーツライターフレッド・リーブが呼んだとされる)。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(Death Valley)=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。また、この球場で初の本塁打を放ったのもルースで、「ここで初めてホームランを打ったのは僕だけど最後に打つのは神様しか知らない」と発言した。因みにヤンキー・スタジアム 最後の本塁打を打ったのはホセ・モリーナである。. [read more]