Jeollabuk-do, South Korea, page #99

益山駅(イクサンえき)は、大韓民国全羅北道益山市昌仁洞2街にある韓国鉄道公社(KORAIL)の駅である。概要湖南線と全羅線の分岐駅であり、さらに湖南高速線、長項線も乗り入れる交通の要所であり、各路線全ての列車が停車する。湖南高速線、湖南線龍山方面から全羅線に直通する列車がある。また、ソウル駅より長項線を走行してきた観光列車「西海金光列車(G-Train)」も当駅が終着駅である。なお、湖南高速線は当駅から駅南側の平和陸橋付近まで、湖南線との線路共用区間(線籍上は重複扱い)となっており、今後別線化工事が行われる予定である。利用可能な路線韓国鉄道公社湖南高速線(KTX) - 一部列車は、当駅にて湖南線方面列車と全羅線方面列車の分割併合を行う。湖南線全羅線長項線駅構造島式ホーム5面10線の地上駅。駅周辺毎日中央市場益山駅市外バス停留所中央洞住民センター裡里中央初等学校裡一女子中学校益山中央洞郵便局NH農協銀行益山中央支店ウリィ銀行益山支店中小企業銀行益山中央支店新韓銀行益山中央店韓国スタンダードチャータード銀行益山支店歴史1912年3月6日 - 湖南線開通により客扱い開始。1915年1月1日 - 裡里駅として開業。1977年11月11日 - 午後9時15分頃、当駅停車中の貨物列車に満載のダイナマイトが、列車乗務員(警備員)の火の不始末から爆発。死傷者多数を引き起こす大惨事となり、駅舎を含む周辺の建物が損壊した。11月13日付毎日新聞東京本社版1面掲載の写真によると、直径数百メートルにわたるクレーター状の陥没痕が認められ、爆発の凄まじさが伺える。裡里駅爆発事故を参照。1978年11月10日 - 旧駅舎竣工。1995年9月1日 - 駅名を益山駅へ改称。2004年4月1日 - KTXの運行開始。2014年11月29日 - 新駅舎での営業を開始。2015年4月2日 - 湖南高速線が開業。. [read more]

群山空港(クンサンくうこう、韓国語:군산공항、英文表記:Gunsan Airport)は、大韓民国の全羅北道群山市にある軍民両用の空港。駐韓アメリカ空軍の群山空軍基地(Kunsan Air Base)が置かれている。概要韓国の南西部にあり、ソウル特別市からは240kmほど離れている。烏山空軍基地と並ぶ、太平洋空軍傘下のアメリカ第7空軍の主力基地の一つである。F-16Cを装備した第8戦闘航空団(第35戦闘飛行隊、第80戦闘飛行隊)が所在している。なお、第8戦闘航空団は対地攻撃および空対空戦闘の双方を任務としている。民間空港としても供用され、大韓航空が済州島との間に、1日に1、2往復の旅客機を運航している。かつてはソウル、釜山との間にも運航されていた。歴史群山空港は、1938年に設営された日本軍の航空基地を基にしている。1945年以降はアメリカ軍が駐留し、小規模な連絡基地として使用していた。1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後、北朝鮮軍の迅速な進撃により、群山基地は1950年7月13日に占領された。その後、10月にアメリカ第24師団が基地を奪回している。1951年より基地の整備・拡張が開始され、第27飛行場群や第808航空設営大隊により、5,000フィート(約1,520m)の滑走路が整備された。8月にはB-26を装備した第3爆撃航空団の展開が開始されている。その後も、海兵隊航空団やF-84を装備した戦闘爆撃航空隊などが展開している。朝鮮戦争終結後は、部隊の撤退が続き、1958年に滑走路が9,000フィート(約2,740m)に延長されたものの、1960年代には韓国空軍のF-86部隊が展開していたのみであった。なお、プエブロ号事件の際には、一時的にF-100が配備された。これ以降、基地は再び活性化し、断続的ではあるものの、部隊のローテーションが行われた。1974年にタイ王国の基地より第8戦闘航空団に移駐し、今日に至っている。. [read more]

金山寺(きんざんじ)は、大韓民国全羅北道金堤市にある仏教寺院。韓国仏教の最大勢力宗派である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の第17教区本寺。弥勒信仰が盛んだった百済に源流をもつ寺院で、もとは法相宗の根本道場だった。沿革百済の寺院で599年(法王元年)に創建された。百済滅亡後、統一新羅の景徳王の時代(722年 - 766年)に眞表によって重修され、法相宗の根本道場になった。935年、後百済末期の王位継承問題で、後百済始祖の甄萱はその長男神剣によって金山寺に3ヶ月間幽閉された。高麗時代の1079年(文宗33年)、恵徳王師により最盛期を迎える。石蓮台・五重石塔・露柱など、現存する主要石物はこの頃つくられた。李氏朝鮮の太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に金山寺の名前はなく、廃寺になったようである。世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際も、存続を許された36寺院の中に金山寺の名前はなく、引き続き廃寺のままだったようである(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。1592年(宣祖25年)、日明戦争がはじまると、金山寺は僧兵の拠点として活用された。1596年(宣祖29年)の慶長の役のさい、金剛門一つだけを残し、あとは火災で焼失した。1635年(仁祖13年)に守文大師が再建した。. [read more]