Restaurant - Cambodia, page #64

S21は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられていた政治犯収容所の暗号名である。稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無い。現在は地名を取ってトゥール・スレン(ទួលស្លែង、Tuol Sleng)と呼ばれており、国立のトゥール・スレン虐殺犯罪博物館(សារមន្ទីរ ឧក្រិដ្ឋកម្មប្រល័យពូជសាសន៍ទួលស្លែង、Tuol Sleng Genocide Museum)となっている。2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人(現在身元が分かっているのは7人)のみであった(これまでは7人とされていたが、2007年、別の刑務所に移送されたため生き残った女性1人が名乗り出た)。歴史プノンペンの中心からやや南方に位置する:en:Chamkarmon District(ខណ្ឌចំការមន、Chamkarmon District)には、トゥール・スヴァイ・プレイというリセがあった。革命に学問は不要と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは、1976年4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子を尋問しその係累を暴くための施設に転用した。それ以前にもプノンペン市内にはいくつかの政治犯収容所があった模様で、そこでは厳しい尋問が行われていたようだが、生きては出られぬ収容所ではなかったと言う。収容所がS21に集約されると共に、一度収容されたものは生きて出ることはない場へと変貌したが、そのどちらが原因でどちらが結果かは今となっては不明である。また、1976年の毛沢東の死によってクメール・ルージュ党中央は中国からの援助が止まるのではないかと危機感を募らせ、それと共に反革命分子の詮索も苛烈の度を増していった。1975年5月のマヤグエース号事件救出作戦で捕えられたアメリカ海兵隊員3名もここに送られ、尋問を受けた記録が残されている(その後彼らは処刑されたと思われる)。革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いないという、ポル・ポトを始めとする党中央の被害妄想に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応によって看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された(のちにそこは「キリング・フィールド」と呼ばれることになる)。同じ理由からか尋問の場所もリセの正門前の民家に広げられた。あるいは手狭になったためかも知れない。. [read more]