源頼朝の同母弟、源希義の墓。
平治の乱の後、1160年、頼朝(13才)は伊豆、希義(3才)は土佐に流刑となる。
1180年に頼朝挙兵、希義はこれに参加しようとするが平家方に討ちとられる。1180年とも1182年とも言われる。
頼朝は大軍を送って、希義を討った蓮池、平田らを殲滅した後、墓所に西養寺を建立し供養した。西養寺は明治維新の廃仏毀釈まで続いていた。
3才で兄と別れてから一度も再会できなかったことを哀れみ、平成6年に鎌倉と土佐、互いの墓所の土と石を交換し再会を果たさせたと言う。
希義の子孫は、吉良氏を 名乗って弘岡を中心とした在地領主となり土佐国の七豪族の一つとして栄えたが戦国時代に絶えた。