Kagoshima, Japan, page #168

小倉町(こくらちょう Kokura-Chō)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧高城郡水引郷小倉村、高城郡水引村大字小倉、薩摩郡西水引村大字小倉、薩摩郡水引村大字小倉、川内市小倉町。郵便番号は899-1922。人口は607人、世帯数は290世帯(2011年4月1日現在)。地理薩摩川内市の本土側の西部、川内川の下流域に位置している。字域の北方から東方にかけては陽成町、南方には高江町、西方には湯島町、水引町、東方には五代町がそれぞれ隣接している。字域の南端部には川内川が流れ、それに沿って鹿児島県道44号京泊大小路線が通っている。また、中央部には国道3号が東西に通っており、それに沿って肥薩おれんじ鉄道線が通っているが、字域内には駅は所在しない。その他東端部にある岩元交差点で鹿児島県道340号湯之元佐目野線が陽成町方面へ分岐する。集落は国道3号付近の川底集落や県道44号付近の小倉集落があり、字域の中央部を南北に流れる小倉川周辺に水田がある。河川 川内川歴史小倉の成立小倉という地名は江戸期より見え、薩摩国高城郡水引郷のうちであったが、江戸前期から中期にかけては五代村と共に「水引村」となっており、天保年間には水引村は宮内村に吸収されたことが確認されている。その後小倉村は五代村と共に宮内村から分離したと考えられている。町村制施行以後1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、水引郷の区域を以て水引村が成立し、江戸期の小倉村の区域は、水引村の大字「小倉」となったが、2年後の1891年(明治24年)に網津にある石灰工場の利益独占を狙い、網津、小倉、草道の3大字が西水引村として、その他の3大字も東水引村として解体分割され、水引村は消滅し、小倉は西水引村の大字となった。1929年(昭和4年)には東水引村が隈之城村、平佐村と合併し、川内町となったのに伴い、西水引村は水引村に改称。小倉は水引村の大字となった。. [read more]

若松町(わかまつちょう Wakamatsu-Chō)は、鹿児島県薩摩川内市の町名。旧川内市向田町の一部、川内市若松町。若松町の全域で住居表示を実施している。郵便番号は895-0054。人口は122人、世帯数は53世帯(2011年4月1日現在)。町名は分割される以前に付近が向田町の小字「若松」の区域であったことに由来する。地理薩摩川内市の本土側の南西部、川内川支流隈之城川の下流域に広がる薩摩川内市の市街地に位置しており、字域の北方から西方にかけては西開聞町、南方には宮里町、冷水町、北東方には東開聞町、東方には神田町がそれぞれ接している。大部分が第二次世界大戦終戦後の策定された戦災復興都市計画により土地区画整理事業が行われ、古くからあった水田を埋め立てて住宅地となった区域である。また、薩摩川内市役所に隣接していることから公共施設も多く所在しており、川内文化ホール(旧:川内市民会館)、薩摩川内市消防局中央消防署南部分署などが所在している。その他、民間施設として北さつま農業協同組合川内総合支所(旧:さつま川内農業協同組合本所)、川内聖母幼稚園、川内カトリック教会などが所在している。施設 公共* 川内文化ホール* 鹿児島県環境放射線監視センター* 薩摩川内市消防局中央消防署南部分署 教育* 川内聖母幼稚園 教会* 川内カトリック教会 その他* 北さつま農業協同組合川内総合支所小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。交通鉄道字域内には鉄道は通っていない。最寄りの駅は川内駅である。道路 県道* 鹿児島県道43号川内串木野線関連項目 若松町 (曖昧さ回避). [read more]

青山町(あおやまちょう Aoyama-Chō)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧薩摩郡隈之城村大字西手の一部、薩摩郡川内町大字西手の一部、川内市青山町。郵便番号は895-0044。人口は1,110人、世帯数は473世帯(2011年4月1日現在)。「青山町」という大字名は大字西手の小字「青山」に由来している。地理薩摩川内市の本土側の西南部、隈之城川支流木場谷川の流域に位置している。字域の北方には宮里町、隈之城町、南方から西方にかけてはいちき串木野市荒川、南方から東方にかけて都町、西方には高江町、東方には中福良町がそれぞれ接している。字域の南端部を鹿児島県道313号荒川川内線が東西に通っており、その沿線から丘陵斜面にかけて、木場谷、青山、乗越、高貫、堀之内の5集落が所在している。字域の東部には薩摩川内市立青山幼稚園、青山保育園、川内地域職業訓練センターなどの公共施設が所在している。歴史前史青山という地名はこの付近では戦国期に青山名という地名が見えており、天正2年の「上井覚兼日記」に青山の地名が見えていることが初見とされている。近世には隈之城の西手村の字となっており、その後は村としても大字としても1940年に大字西手から分割されるまでは青山という地名は見えない。また、戦国期の青山名の区域は、後の隈之城村大字西手字青山の区域にあたる。成立以降1940年(昭和15年)に川内町が市制施行したのに伴い、川内町大字西手より分割され、川内市の大字「青山町」として成立した。1993年(平成5年)に都町字南及び字本領の各一部を青山町に編入し、青山町字原田の一部を都町に編入した。2004年(平成16年)には川内市等が新設合併し薩摩川内市となり、薩摩川内市の大字「青山町」となった。. [read more]