Gunma, Japan, page #87

金剛院(こんごういん)は、群馬県沼田市にある天台宗の寺院。山号は海王山。歴史かつては赤城山金剛院といい、現在の昭和村三室にあり、赤城山の別当職をしていた。明徳・応永年間に三浦沼田氏の沼田五郎景次が上洛して出家し、上沼須町に寺院を建立したのが開基といわれる。この沼田景次は、沼田太郎上野介景繁の三男であり、京都においては愛宕山威徳院の別当となっていた。その後、一時、寺運は衰微してしまったが、寛正年間の頃、中興一世の宏栄法印の時代になって沼田氏から愛宕地蔵尊像、寺領、供養料を賜り隆盛した。また、沼田氏が滅んだ後、真田氏の時代になってから、元和元年(1615年)に伊豆守信幸から百間四面の地を賜り、現在の地に移っている。この後、数度の火災にあうが、その都度再建立されている。現在の本堂は天明7年(1787年)に、二十世の覚便法印によって建立された。明治維新前は、上野東叡山寛永寺の末寺であったが、維新の時に寛永寺が焼失したので、それより比叡山延暦寺の直末となった。そして、明治14年(1881年)、二十八世の亮海法印の時に成田山新勝寺より不動明王を勧請している。以降、信者団体である成田講(現・沼田成田山金剛講)が結成されて現在に至る。総門に続いて薬医門をくぐれば正面に落ち着いた雰囲気の本堂が見られ、右手には鮮やかな朱色の鐘楼が見えてくる。境内の池には、水かけ不動像があり、諸難に悩む民衆の信仰を集めている。寺宝 金剛の船松 綾戸隧道開鑿日誌関連項目 北関東三十六不動尊霊場第2番. [read more]

田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)は、群馬県伊勢崎市境島村にある歴史的建造物。明治初期に大きな影響力を持った養蚕業者田島弥平が自身の養蚕理論に基づいて改築した民家である。「近代養蚕農家の原型」とも言われるその旧宅は、2012年に国の史跡に指定され、2013年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。田島弥平田島弥平(1822年 - 1898年)は『養蚕新論』(1872年)、『続養蚕新論』(1879年)を刊行した佐位郡島村(現伊勢崎市境島村)の養蚕業者、蚕種製造・販売業者である。明治初期に広く行われた蚕の養育法である「清涼育」を確立し、自宅の主屋2階および納屋を蚕室として改築し、その実践に努めた。彼は単に育成法を確立しただけでなく、それに適した蚕室構造も確立し、著書などを通じてその普及にも寄与した。そうした彼の近代養蚕業への貢献に対し、1892年に緑綬褒章が授与された。島村式蚕室田島弥平は当初、気温の調節をほとんど行わない自然育(清涼育)によって蚕を育てていたが、火気によって室内を暖める温暖育へと転換した。しかし、これがうまくいかないとなると、試行錯誤を重ねて独自の「清涼育」を確立するに至った。弥平は清涼育の実践のために、安政3年(1856年)に納屋を改造して2階建ての蚕室とし、その年の失敗を踏まえて、翌年に換気のための窓(ヤグラ)を屋根(屋上棟頂部)に据えつけた。これが好成績に結びついたことから、さらに改良をし、3階部分を増築して吹き抜け構造の蚕室にした。また、主屋(母屋)も2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラ(総ヤグラ)が載る形にした。この2つの蚕室が完成した文久3年(1863年)は、弥平の「清涼育」が確立した年とされる。生糸だけでなく、蚕種の輸出が解禁されたのは、弥平が清涼育を確立した翌年、元治元年(1864年)のことであった。それにあわせ、島村でも蚕種製造業者が増え、その家屋に弥平の蚕室構造を取り入れる者たちが急速に増えていった。かくして、弥平が確立したヤグラのある養蚕家屋は「島村式蚕室」と呼ばれるようになった。そして、島村式蚕室は、島村にとどまらず、弥平の著書を通じて全国に普及した。. [read more]

館林城(たてばやしじょう)は群馬県館林市城町3にある戦国時代から江戸時代の日本の城である。概要尾曳(おびき)城ともいう。15世紀に築かれたとされる。徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。現在、一部の遺構を残しているのみで、跡地に市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などが建てられている。歴史・沿革室町時代築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたというもの。戦国時代その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。江戸時代江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。. [read more]