School - Japan, page #38

広島工業大学高等学校(ひろしまこうぎょうだいがくこうとうがっこう)は、広島県広島市西区井口五丁目にある私立高等学校。校長は玉田康荘(たまだこうそう)。沿革 1956年(昭和31年) - 鶴虎太郎を校祖として、鶴襄により広島市西蟹屋町に広島高等電波学校を創設。認可された2月23日を学園創立記念日に制定 1957年(昭和32年) - 「学校法人 鶴学園」設置認可 1958年(昭和33年) - 広島電波工業高等学校に昇格。電気通信科を設置。現在地(西区井口5丁目)に移転 1959年(昭和34年) - 電気工業科増設 1961年(昭和36年) - 広島工業短期大学附属高等学校に校名変更。電気科、機械科設置 1963年(昭和38年) - 広島工業大学附属工業高等学校に校名変更。普通科設置 1965年(昭和40年) - 普通科を(鶴学園)広島高等学校へ分離、建築科増設 1967年(昭和42年) - 広島工業大学への推薦制度導入。建築科のデザインコース設置 1969年(昭和44年) - デザイン科増設 1980年(昭和55年) - 新校舎落成 1985年(昭和60年) - 電子工業科を電子科へ改称 1994年(平成6年) - 現校名に校名変更。普通科設置に伴い、今までの工業科を情報システム科、機械システム科、電気システム科に改編。 1997年(平成9年) - 国道2号沿いのサブグラウンドをサッカーと陸上競技用の多目的グラウンドに造成 1999年(平成11年) - 工業三科を理工科にまとめ、進学型、工学型を設置 2000年(平成12年) - 普通科に一般進学コースと特別進学コースを設置 2003年(平成15年) - 南門設置 2004年(平成16年) - 理工科の募集停止 2005年(平成17年) - サブグラウンドを人工芝に、グラウンドのコースもゴム製アンツーカーになった。 2006年(平成18年) - 理工科の募集停止に伴い、平成17年度の卒業生を最後に45年間の工業高校、工業科の歴史に幕を閉じる。 2007年(平成19年) - 鶴学園50thメモリアルスポーツセンター完成。 2011年(平成23年) - 通信制課程(普通科・男女共学)を沼田校舎に設置。 2017年(平成29年) - 女子生徒の募集を再開し昭和53年以来、38年ぶりに男女共学化。. [read more]

菊川市立菊川西中学校(きくがわしりつ きくがわにしちゅうがっこう)は、静岡県菊川市にある公立中学校。所在地は静岡県菊川市加茂38。校章は黄菊をモチーフにしている。概要(2016年5月1日現在) 生徒数:513人 学級数:18校舎概要 北校舎(普通教室棟):鉄筋コンクリート造3階建 南校舎(管理・特別教室棟):鉄筋コンクリート造3階建 西校舎(図書室・特別教室):鉄筋コンクリート造2階建・屋上連絡通路 東校舎(生徒昇降口):鉄筋コンクリート造2階建・屋上連絡通路校舎は北校舎と南校舎に分かれており、これを結ぶ西校舎と東校舎を加えると四角形の校舎配置となっている。北校舎・南校舎とも、教室の上は南面勾配の大屋根、廊下上は北面勾配の小屋根という特徴的な屋根形状となっており、3階の教室は傾斜天井となっている。中庭は巨大な砂場になっており、月に一度生徒会(代表委員会)が主導してその月の行事などの季節の言葉の造形をつくる。歴史 1947年(昭和22年)4月1日 ‐ 学制改革により、堀之内町立堀之内中学校、六郷村立六郷中学校、加茂村立加茂中学校、内田村立内田中学校、横地村立横地中学校を設立。 1950年(昭和25年) ‐ 堀之内中学校と六郷中学校を統合し、堀之内町外四ヶ村組合立菊水北中学校を設立。加茂中学校、内田中学校、横地中学校を統合し、堀之内町外四ヶ村組合立菊水南中学校を設立。旧5中学校校舎にて分散授業。 1951年(昭和26年) ‐ 加茂村宮の西(現・クミアイ化学工業生物科学研究所)に菊水南中学校校舎落成。統合授業開始。 1952年(昭和27年) ‐ 菊水中学校組合立菊水北中学校、菊水中学校組合立菊水南中学校に改称。 1954年(昭和29年)1月1日 ‐ 町村合併により、菊川町立菊川北中学校、菊川町立菊川南中学校に改称。現中学校運動場の位置に菊川北中学校校舎落成。統合授業開始。 1958年(昭和33年)12月3日 ‐ 菊川南中学校が、夕刻発生した火災により全焼。 1960年(昭和35年)1月10日 ‐ 菊川北中学校の西隣に菊川南中学校を再建。隣り合う敷地に両中学校がそれぞれ独立した施設を構えることとなった。 1961年(昭和36年)4月1日 ‐ 菊川北中学校と菊川南中学校を統合し、菊川町立菊川中学校を設立。 1978年(昭和53年)4月1日 ‐ 菊川町立菊川東中学校の移転新築により校区を一部変更。 1982年(昭和57年)9月1日 ‐ 新校舎落成。 1985年(昭和60年)4月1日 ‐ 菊川町立菊川西中学校に改称する。同時に学区を再編。 2005年(平成17年)1月17日 ‐ 菊川市発足に伴い、菊川市立菊川西中学校となる。. [read more]

大阪市立海老江西小学校(おおさかしりつ えびえにししょうがっこう)は、大阪府大阪市福島区にある公立小学校。戦前の外交関係が緊迫し始めていた1927年にアメリカから贈られた「青い目の人形」が1989年に発見され、話題となった。また校内には、21基の水槽で淀川水系の魚約30種類を飼育する「海老江西水族館」が整備されている。沿革西成郡鷺洲第一尋常小学校(現在の大阪市立鷺洲小学校)から分離する形で、当時の西成郡鷺洲町で3番目の公立小学校・西成郡鷺洲第三尋常小学校として1914年に開校した。開校の際、鷺洲第一小学校の塚本分校を、鷺洲第三小学校分校として継承している。分校は淀川北岸の鷺洲町大字塚本(現在の西淀川区柏里および淀川区塚本付近)および海老江新家(現在の西淀川区花川付近)在住の1-2年生児童が通学していた。分校は1924年に西成郡鷺洲第五尋常小学校(現在の大阪市立柏里小学校)として独立している。1924年には高等科を併設し、西成郡鷺洲第三尋常高等小学校となった。翌1925年には鷺洲村が大阪市に編入し、大阪市鷺洲第三尋常高等小学校と称した。また1933年には校区の一部を、新設の大阪市鷺洲第六尋常小学校(現在の大阪市立海老江東小学校)の校区へと分離した。1934年9月には室戸台風の被害に遭い、一部校舎が使用不能となった。このため校舎復旧までの一時期、三部授業や鷺洲第六小学校の教室の間借りをおこなっている。1940年には鷺洲地域の各小学校に設置されていた高等科を集約して、西淀川区浦江上3丁目(現在の福島区鷺洲6丁目)・大日本紡績社宅跡に、高等科単独の小学校・大阪市鷺洲高等小学校(1941年国民学校令により大阪市八阪国民学校に改称)を新設した。これに伴い、高等科を鷺洲高等小学校へと移管している。鷺洲高等小学校(八阪国民学校)は学制改革で廃止になり、跡地は大阪市立八阪中学校となっている。. [read more]

大阪市立海老江東小学校(おおさかしりつ えびえひがししょうがっこう)は、大阪府大阪市福島区にある公立小学校。野田阪神の北側から淀川の南岸にかけての地域を校区とする。沿革従来の大阪市鷺洲第一尋常小学校(現在の大阪市立鷺洲小学校)および大阪市鷺洲第三尋常小学校(現在の大阪市立海老江西小学校)の校区を再編し、大阪市鷺洲第六尋常小学校として1933年に開校した。1941年には国民学校令の実施により、大阪市立海老江東国民学校に改称している。大阪市では国民学校への改編の際、従来「地域名+創立順の番号」の名称を名乗っていた学校について、番号での校名をやめて地名などを取り入れた校名へ変更する方針をあわせて出している。これに伴い従来の「鷺洲第六」(鷺洲=旧西成郡鷺洲町で6番目の学校)から学校所在地付近の地名・海老江をとった「海老江東」へと改称している。太平洋戦争の戦局悪化により、大阪市の国民学校児童は1944年以降学童疎開を実施することになった。疎開先の府県は各行政区ごとに指定され、福島区の国民学校には広島県が疎開先として割り当てられることになった。海老江東校の児童は1944年以降、広島県御調郡市村・河内村・上川辺村・今津野村(以上、現在の尾道市)および下川辺村(現在の府中市)への学童集団疎開を実施している。1945年6月7日の第三次大阪大空襲では、校舎を半焼する被害を受けた。1947年には学制改革により、大阪市立海老江東小学校へ改称した。. [read more]

亀山市立亀山南小学校(かめやましりつ かめやまみなみしょうがっこう)は、三重県亀山市天神三丁目にある公立小学校。亀山西小学校の児童数の増加を受けて昭和57年に新設された学校である。南側に通称:観音山があり、4月上旬に春祭りで地元の人々でにぎわう。学校方針学校の教育目標は「自ら学ぶ力・仲間とみがき合う力を育み、地域とともに歩む明るい学校」である。この目標を達成するために、以下のような点を定めている。学校像「のびよう ともに たくましく」 一人ひとりに「確かな学力」をつける学校 一人ひとりに「豊かな心」の育成を図る学校 保護者や地域の人から信頼され、活力がある学校児童像「よく考え、よく学ぶ子ども」 基礎基本の定着を図り、学習に継続して取り組む子ども 読書に親しみ、自主的に学ぶ子ども「認め合い、高め合う子ども」 考えや思いを伝えあい、自分のことばで表現できる子ども 互いに信頼し、高め合いながら仲間とのつながりを深めようとする子ども「心身とも健康でたくましい子ども」 自他の命を大切にし、健康・安全な生活を送ることに努める子ども 基本的な生活習慣を身につけようとする子ども教職員像 互いに信頼し合い、支え合い、働きがいのある職場を形成しようとする教職員 自己研鑽に努め、能力や資質を高めようとする教職員 優しさと厳しさを持ち、教育への情熱と使命感を持つ教職員 家庭や地域と積極的にコミュニケーションを図り信頼関係を構築しようとする教職員校庭芝生化平成22年度の「亀山南小学校校庭芝生化モデル事業」により、ソフトボールの内野部分を除いた4870平方メートルに芝生が張られた。事業費は1524万円だが、その一部は文部科学省の「安全・安心な学校づくり交付金」における「屋外教育環境施設の整備」で補助を受けた。この事業の効果を分析し、メリットが大きいと判断されれば今後校庭の芝生化が進む可能性がある。. [read more]

亀山市立亀山西小学校(かめやましりつ かめやまにししょうがっこう)は、三重県亀山市本丸町にある公立小学校。大正6年に亀山第一・第二両尋常高等小学校を廃止して設置された亀山尋常高等小学校の初等科を引き継いでいる。亀山市役所の向かい側に立地し、住所の本丸町が示す通り、一帯はかつての亀山城の敷地にあたる。そのため敷地内からは亀山城の遺構などが多数発見されている。沿革1873年2月 - 亀山藩校明倫館跡に亀山学校を創立。1882年3月 - 亀山学校と亀街学校が合併し、友徳学校を創立。1887年4月 - 友徳学校を廃止し、新たに亀山尋常小学校を創立。1887年5月 - 郡内の尋常小学校卒業者の受け入れを目的として、友徳学園旧館に鈴鹿郡高等小学校を創立。1892年11月 - 鈴鹿郡高等小学校を鈴鹿郡町村立高等小学校と改称。関、深伊沢、石薬師の3箇所の分教場を設置。1896年4月 - 鈴鹿郡町村立高等小学校を亀山町外9ヶ村学校組合高等小学校と改称。1903年4月 - 亀山町外9ヶ村学校組合高等小学校を亀山町外5ヶ村学校組合高等小学校と改称。1908年4月 - 小学校令の一部改正で、各村の尋常小学校が高等科を併設。1909年4月 - 亀山町外5ヶ村学校組合高等小学校と亀山尋常小学校を廃止し、新たに亀山町立の亀山男子尋常高等小学校と同女子尋常高等小学校を創立。1910年4月 - 亀山男子尋常高等小学校を亀山第一尋常高等小学校と、亀山女子尋常高等小学校を亀山第二両尋常高等小学校とそれぞれ改称。1917年6月 - 亀山第一・第二両尋常高等小学校を廃止し、新たに亀山尋常高等小学校を創立。1941年4月 - 学制改革により尋常高等小学校を国民学校と改称。1947年4月 - 学制改革により、国民学校が廃止され、亀山国民学校は初等科が亀山小学校に、高等科が亀山中学校となる。1954年10月 - 市制施行に伴い亀山市立亀山小学校となる。1963年4月 - 亀山東小学校の設立に伴い、校名を亀山西小学校に変更。1964年3月 - 鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成。1969年7月 - プールが完成。1975年8月 - 鉄筋コンクリート3階建の東校舎が完成。1981年2月 - 講堂の代替施設として、屋内運動場が完成。1982年3月 - 講堂取り壊し。1982年4月 - 亀山南小学校の設立に伴い、児童数が245人減少。2004年8月 - 新校舎建設のため、全ての学校施設(校舎2棟、屋内運動場、プールなど)の取り壊し作業開始。2006年3月 - 新校舎が竣工。. [read more]