Shanghai, China, page #1,086

四行倉庫の戦い(しこうそうこのたたかい)は日中戦争中の1937年(昭和12年)10月26日から11月1日にかけて行われた、第二次上海事変における最後の戦闘である。この四行倉庫の守備隊は中国では「八百壮士」として知られており、日本軍の数度の攻撃に耐え、上海戦において中国軍が西へ退却する際の援護を行った。四行倉庫は上海共同租界の蘇州河対岸に位置しており、共同租界に向かい合っているため、この地区に流れ弾が着弾して欧米と衝突してしまうことを避けたい日本は、敢えて艦砲射撃を要請しなかった。背景1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件を契機として日中の関係は緊迫した。日本陸軍が華北から南下して席巻している時、上海でも中国正規軍による攻撃のため、8月13日に日中両軍の戦闘が始まった(第二次上海事変)。10月26日までには閘北地区の中国軍の抵抗が衰えつつあった。蒋介石軍事委員長は、この地区の全部隊を上海西方の田園地帯防衛のため撤退させようと考えており、第3戦区代理司令長官顧祝同に対して、中国軍第88師を時間稼ぎのため後背に残置させるよう命令し、ブリュッセル国際会議(11月6日開催)で日本の侵略行為に抵抗するという中国の決意を示すことで、国際的な支持を引き出そうとした。顧祝同は個人的に第88師に対する愛着を持っており(かつて自身が指揮した第2師がドイツ式装備の第88師に整編された)、この部隊を残置することは不本意であった。 顧は第88師師長孫元良(en)へ電報を打ったが、孫はこの作戦に猛烈に反対し、参謀長の張柏亭を顧の司令部(前線から約20km)に派遣して反対意見を主張した。顧祝同、孫元良、張柏亭とも蒋の命令に背こうとしていたが、孫は(張を通じて)顧に対し前述の「決意表明」に支障のない程度で、若干人の兵隊を撤退援護に残すことを示唆した。彼の言葉によれば、「どれだけの人間を犠牲にしても違いは無いだろう(同様に目的を達成するだろう)」。孫は第88師の1個団(連隊)を残置して1、2箇所の要塞陣地を防衛させることを提案し、顧はこの計画を承認した。張参謀長は四行倉庫の第88師司令部へ引き返した。司令部では、孫は1個団ですら人命のひどい浪費であると判断し、その代わりに戦力を増強した1個営(大隊)を投入することに決めた。第88師内で比較的新任の将校である謝晋元(en)は、この営を率いることを志願した。. [read more]