Lodging - Oberösterreich, Austria, page #70

マウトハウゼン強制収容所(KZ Mauthausen)は、オーストリアのオーバーエスターライヒ州マウトハウゼン周辺にあった強制収容所。リンツの東方約20kmに位置していた。概要マウトハウゼンはドナウ川左岸の丘に囲まれた町で、当時オーストリア最大の花崗岩採石場があった。1938年初め頃、ダッハウ強制収容所の強制労働分隊がここで採掘作業をするようになった。そのため親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはこの採石場を見下ろす丘の上に新たにマウトハウゼン強制収容所を建設することを決定した。1941年1月2日にラインハルト・ハイドリヒの定めた政令によれば、マウトハウゼンは最も重い「第三カテゴリー」という、再教育の見込みのない「犯罪者」・「反社会分子」とみなされた囚人を収容する強制収容所に指定された。そのためここの囚人はナチ強制収容所の中でも特に過酷な扱いを受けた。 例えば1943年の1年間、収容者数は約1万5000人であったが、うち7058人も死亡している。これは絶滅収容所を除く他の強制収容所、ダッハウ強制収容所、ブーヘンヴァルト強制収容所、ザクセンハウゼン強制収容所などをはるかに上回る死亡者数である。(しかし第二次世界大戦後期・末期、ドイツの戦況が悪化するにつれ、どこの収容所も大量の死亡者を出し、劣悪な生活環境という点ではマウトハウゼンとあまり変わらない状況に陥った。)大戦中の「夜と霧の布告」で連れ去られた者たちが送られたのは主にこの収容所であった。この収容所は絶滅収容所ではなかったが、ガス室が設置されていた。ここでガス殺された囚人の数は、後のヴェストファーレンでのハーゲン裁判などの調査によると3500人程という。また付属収容所のグーゼン強制収容所にもガス室が設置されていた。絶滅収容所ではないので、ユダヤ人やロマなど人種を理由にしたガス殺は少なく、ガス室に送られた者は主にソ連軍の捕虜やチェコ人・ポーランド人などの反体制分子、病人、労働できなくなった者などだった。大戦末期、東部の閉鎖された収容所から続々と囚人が移送されてきて1945年1月には約85,000人の収容者がいた。正確には不明だがほとんどの情報源において、1938年8月から1945年5月5日にアメリカ軍によって解放されるまでの死者数は122,766人から320,000人の間である。. [read more]