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大ブルガリア公国

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大ブルガリア公国(だいブルガリアこうこく、Княжество България / Knyazhestvo Bulgaria)は、1878年3月に露土戦争の講和条約として結ばれたサン・ステファノ条約によって、一時的にブルガリアに成立した公国。ロシア帝国からの影響が強く、この新たな国家はロシアの地中海への南下政策を容易にするものであったためイギリス、オーストリアの反発を招き、事態の収拾を図ったドイツが主催したベルリン会議の結果、ベルリン条約によって大きく領土を縮小された。概要サン・ステファノ条約によって、ブルガリアは自治公国としての地位を認められた。オスマン帝国はブルガリアから軍を撤退させることになり、ブルガリアの自治政府とオスマン帝国との関係は貢納のみと規定された。ブルガリアの領土はマケドニアの一部を含み、北はドナウ川から南は一部エーゲ海に面するまで拡張された。しかし、オスマン帝国が条約通り軍を撤兵させるかを監視するという口実で、2年間に渡って5万のロシア軍が駐留することも確認された。そのため、バルカン半島、エーゲ海一帯にロシアの影響力が強まることが予測され、イギリス、オーストリアの激しい反発を招いた。当時、ドイツ帝国の統一を果たしたばかりのオットー・フォン・ビスマルクは、工業発展・国民統合といった国内の課題に専念することを望み、ドイツを巻き込む列強の対立を引き起こすこの国際問題の紛糾を望まなかった。そのため、この事態の収拾を図りベルリン会議が開催され、1878年に大ブルガリア公国は事実上3つに分割された。オスマン帝国に返還されるマケドニア(地図の茶色の部分)、同じく返還されるが自治州となる東ルメリ自治州(地図の赤の部分)、そして領土を縮小されたブルガリア公国(地図の緑の部分)の3つである。この分割によりブルガリアは地中海への出口を失い、ロシアの南下政策は阻止された。

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